南河内地区
  下野薬師寺跡・安国寺の六角堂

 7世紀後半、白鳳期の創建とつたえられ、奈良時代には奈良東大寺、筑紫観世音寺とともに日本三戒壇の一つが設置され、東国仏教文化の中心地として栄えていました。足利尊氏によって「安国寺」と改名された寺の境内、竹林の奥、戒壇院跡と考えられている場所には江戸時代末期に建てられた「六角堂」があります。

  東根供養塔

 銘文によると、元久元年(1204)佐伯伴行が妻とともに両親の菩提を弔うために造立した供養塔で、県内に現存する紀年銘を持つ宝塔としては最古であり、関東地方でも代表すべきものの一つです。
 「県指定有形文化財」(総高約1.8m)

  名別所山古墳

 別所山古墳は、全長35m、横穴式石室をもつ6世紀後半に築造された前方後円墳です。昭和60年調査を行った時点で古墳はすでに破壊を受けていましたが、調査終了後、築造された当初の姿に修理復元しました。石室から副葬品として出土した「銀装太刀」と「三鈴鏡」はいずれも全国的に他に類例のほとんどない貴重なもので、町の有形文化財に指定されています。

  龍興寺のシラカシ

 龍興寺境内、道鏡塚のすぐ隣りに立地してそびえ、濃緑の葉を茂らせた雄大な様は、周囲の景観に落ちついた雰囲気を与えています。
 「とちぎの名木百選」(樹高約20.5m 目通周囲約3.6m 推定樹齢約500年)

  名木造百体観音菩薩像

 絹板の百観音堂に安置されている観音像は、いずれも江戸時代末期に制作されたもので、西国・秩父・板東の霊場百か所の観音をそれぞれ模刻したものと言われており、中尊十一面観音像を中心に、両側に50体ずつの観音像が配されています。昔から安産・子育て・家内安全など、地域のひとびとの守護仏として厚い信仰をあつめてきました。御開帳は毎年8月9日です。
 「町指定有形文化財」


  道鏡塚古墳

 道鏡は奈良時代の僧侶で、孝謙天皇の信任を得て僧侶としてはじめて大臣禅師にさらに法王という位にまで上りましたが、道鏡を高位につけようとした神託事件の結果、寳亀元年(770)下野薬師寺別当職として左遷され、2年後にこの地で不遇の生涯をとじたとされ、龍興寺本堂北側に残る古墳が道鏡の墓と言いつたえられています。
 「町指定史跡」

鑑真和上の碑

 鑑真は西暦688年唐で生まれ、いく度という苦難の末渡来、日本に戒律をつたえた名僧です。天平寳字5年(761)に日本三戒壇の一つを下野薬師寺に設置しました。龍興寺の墓地内には鑑真の弟子たちが師の遺徳を偲び建立したといわれている供養塔があります。右碑の表面中央には「鑑真大和尚」、左側の面に「天平寶字七壬寅五月五日」と刻まれています。石碑の傍には鑑真がついていた杖が根を生やし大きくなったと言いつたえられる「菩提樹」があります。
 「町指定史跡」(総高約2m)


  下野薬師寺八幡宮

 貞観17年(875年)清和天皇の御勅定に依り下野仮夷國の坂上旭ヶ丘(現在地)に東北守護の大神として又下野国薬師寺(日本三戒壇)の守護神として創建されました。拝領した神領地はは、550町歩を誇り、神主1名、称宜5名と社家11、下社家23、神戸55戸を賜るとありますのでかなり壮大な御社であった事が偲ばれます。 時に天喜4年(1056年)、源頼義公奥賊平定の勅を拝し出向の際、当社に参宮祈願をなし進発したが、源公の後続軍と賊軍とが当社郷において合戦、御社殿、回廊、御餞殿、御酒殿、神主等全く灰塵に帰した。その後、源頼義公、源義家公(八幡太郎)が奥賊安部一族を平定し帰路奉賛、鉄号三張、矢六本を奉納した。(現在は社宝)

国分寺地区
  下野国分寺跡

 町名の由来となった下野国分寺寺跡や同尼寺跡といったマイナーな史跡がしっかり保存 され、県立しもつけ風土記ケ丘資料館に出土品が常時展示されているなど、地域の歴史愛好家の 注目の地域となっています。

滝桜物語

 宗像宗光先生、福島県三春住 誠実、桜を愛育すること慈父
ウメ、モモ、サクラが一斉に咲くという三春町には、樹齢千年の滝桜がある。

  石割桜物語

 元気いっぱい、石割桜の「盛岡 雪子」さん

  下野国分寺尼寺

国分尼寺(こくぶんにじ)の建立は、奈良時代の天平13(741)年、聖武天皇が国家の平安を祈願し、国分寺建立の 詔(みことのり)を発したことにはじまります。国分尼寺は国分寺と同様に国ごとに建てられた官立の寺院で、妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)を根本の教典とし、10人の尼が置かれていました。下野国分尼寺の伽藍跡は、昭和39年以来4回の発掘調査を行って、その大部分が確認されました。伽藍地の規模は、柵列(さくれつ)や築地(ついじ)跡の一部が検出されたことにより、東西145.4m、南北167mに及ぶものであったと推定されています。  主要な建物の配置は、奈良東大寺の様式を基本とし、南大門、中門、金堂、講堂が南北一直線上に並びますが、国分寺においてみられる塔は、尼寺には存在しません。   伽藍の中心で、本尊を安置した金堂は、間口7間、奥行4間の大きな建物で、床は石貼りになっており、瓦葺(かわらぶ)き、丹塗(にぬり)の荘厳(そうごん)なたたずまいを見せていたことが想像されます。                                

昭和40年4月9日 国指定


  愛岩塚古墳

琵琶塚古墳(びわづかこふん)は県内最大の前方後円墳です。古墳の形状や出土した円筒埴輪などから、隣接する摩利支天塚古墳に次いで、6世紀の前半に築造されたものと考えられています。 墳丘は、自然地形の地ぶくれをりようして基壇を設け、さらに2段の土盛りをすることによって構築されています。また、墳丘のまわりには幅およそ20mの壮大な周湟(しゅうこう)が存在しており、調査の結果、東側と南側では、二重にめぐらされていることがわかりました。琵琶塚古墳をはじめとし、思川、姿川の川筋には、強大な首長が葬られたと思われている大型古墳が散在しています。この地域は、遠く大和朝廷の時代に、下毛野国(しもつけぬのくに)を代表する首長達の活躍の舞台となったことがうかがわれます。
墳形:前方後円墳全長約50m 墳丘:幅約26.5m 高さ約3.3m

基壇:直径約22m高さ約3.7m

昭和53年9月8日 県指定


  丸塚古墳

丸塚古墳(まるづかこふん)は県内でも有数の大型円墳で、古墳時代終末期の7世紀ごろに築造されたものと考えられます。墳丘は、ゆるく傾斜する基壇の上にのり、墳頂は直径約13mの平坦な面になっています。 この古墳の埋葬施設は、切石積横穴式石室(きりいしづみよこあなしきせきしつ)というもので、墳丘の南面に開口しています。遺体を納めた玄室の各壁は、凝灰岩の大きな一枚石で構築されています。また、玄門は、この一枚石の中心をくりぬいて造られており、優れた石材の加工技術がうかがえます。なお石室は古くから開放されていたため、副葬品等については明らかではありません。
墳形:円墳  墳丘:直径40m高さ約6m基壇:直径約60m 

昭和53年6月2日 県指定


  摩利支天塚古墳

摩利支天塚古墳(まりしてんづかこふん)は、隣接する琵琶塚(びわづか)古墳とともに県内で最大の規模を誇る大型の前方後円墳です。後円部の墳頂には後年になって摩利支天社が祀(まつ)られ、今に至っています。墳丘は自然の微高地を利用して築かれたもので、その周囲には幅20mを越える大規模な周湟(しゅうこう)がめぐらされています。この周湟は調査の結果、部分的には二重になっていることがわかりました。また墳丘上には、円筒埴輪(えんとうはにわ)が列を成して存在していました。こてらの埴輪や古墳の築造年代は、5世紀末から6世紀初頭と推定されます。このような巨大な古墳の被葬者は、大和王権による支配体制の中で、下毛野国(しもつけぬのくに)をはじめて統括した大首長であったとも考えられています。
墳形:前方後円墳全長約117m前方部:幅約75m高さ約7m後円部:直径約70m高さ10m

昭和53年7月21日 国指定


  琵琶塚古墳

琵琶塚古墳(びわづかこふん)は県内最大の前方後円墳です。古墳の形状や出土した円筒埴輪などから、隣接する摩利支天塚古墳に次いで、6世紀の前半に築造されたものと考えられています。墳丘は、自然地形の地ぶくれをりようして基壇を設け、さらに2段の土盛りをすることによって構築されています。 また、墳丘のまわりには幅およそ20mの壮大な周湟(しゅうこう)が存在しており、調査の結果、東側と南側では二重にめぐらされていることがわかりました。 琵琶塚古墳をはじめとし、思川、姿川の川筋には、強大な首長が葬られたと思われている大型古墳が散在しています。この地域は、遠く大和朝廷の時代に、下毛野国(しもつけぬのくに)を代表する首長達の活躍の舞台となったことがうかがわれます。
墳形:前方後円墳全長約123m 前方部:幅約70m高さ約9m
後円部:直径約75m高さ約11m

大正15年2月24日 国指定